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妄想の地図帳
 「ひぐらしのなく頃に」が好きなおっさんが、二次創作やオリジナル物語を書いたりするとかしないとか。
一つの夜の贈り物
 皆様おはようございます。
今日は先日予告した、ひぐ大おちちゃったSSをアップさせていただきます。
これは以前公式掲示板に投稿させて頂いたSSの加筆版です。入江パートが増えております。
お時間御座いましたら、御一読下さいませ。
挿絵は、友人のコボ君に頂いております。
コボ君、感謝!!


『一つの夜の贈り物』

 プレゼント。
 あなたは誰かにプレゼントを贈った事がありますか?
 それはどんな時? どんな物? そして――誰に?
 忘れられない思い出を形にするプレゼントもあったでしょう。
 未来を約束するプレゼントも、あったかもしれませんね。
 このお話は、一人の女の子の身の回りで起きた、プレゼントにまつわるお話です。
 そう長いお話じゃないんですよ。
 よかったら、ちょっと読んでみませんか?
 

 ―― 昭和五十九年十二月二十四日 午後十一時 ――

 すっかりと灯の落ちた『入江診療所』の廊下に、ぽつりと明かりが漏れていた。
 非常出入口を示す緑の光を除けば、所内に灯るのはその部屋から漏れる明かり一つだけ。
「所長室」と書かれたその部屋の中には、白衣の青年医師の姿があった。
 整然と片付けられたデスクの上には必要最低限の物しか置かれておらず、それは青年の性格を表している様でもあった。
 しん……と静まりかえる室内に、青年の走らせるペンの音が、心地良く溶け消えて行く。
 自らが決めた人生の役割を、静かに、力強く、真摯に青年は果たしているのである。
 誰に課せられるとも、無く。
 窓から差し込む月の灯りだけがその姿を優しく見守っていた。
 不意に、コンコンと控え目なノックの音が響いた。
 青年医師が椅子を軋らせて「どうぞ」と答えると、ノックと同様に控え目な様子でドアが僅かに開かれ、その隙間から女性所員が顔を覗かせた。
「――入江所長」
「おや、まだ居られたのですか戸根さん。遅くまでご苦労様です」
「いえ、入江所長こそこんな遅くまで……。ところでその、例の『常連さん』なんですが――」
「あぁ。彼女が、何か?」
「はい。今日はまだ『彼』の所に居ますが……よろしいので? 面会時間を大幅に過ぎていますけれど……」
「ああ――」
 そう呟いた入江は、もみの木と雪景色の絵の付いたカレンダーを指差し、戸根に向かってウィンクをして見せた。
「今日はホラ、特別な日ですから。私からのプレゼント……という事で」
 それを見た戸根はクスリと笑い、頷いた。
「ふふ、そうですね。私も彼女からプレゼントを頂きましたし。買収成立……ですね」
 チャーミングなウィンクが返って来た。
「はは。そう言う事です」
「了解です。――それでは入江所長、私はもう帰りますけれど……」
「はい。戸締りは任せて下さって結構ですので。お疲れ様でした」
「ありがとうございます。それではまた明日」
 柔らかな笑顔と会釈を残して、戸根は所長室を後にした。
 何とは無く、コツコツと遠ざかって行くヒールの音に入江は心地良く聞き入っていた。
 その耳にピッピッという電子音が届く。卓上のデジタル時計が午後十一時を示していた。
「おっと、もうそんな時間でしたか。――んんっ」
 短く欠伸をした後、大きく背伸びをした薄い背中が音を立てる。
 トントンと肩を叩きながら椅子から立ち上がり、入江は所長室の奥の本棚へと向かった。
 本棚の脇には、意図的に人目を避けるような配置で、パソコンに似た端末が設置してあった。
 端末の電源を入れると、モニターに「PASSWORD?」の文字が浮かび上がる。
 細く白い指でキーボードを操作し、数桁のパスワードを入力すると、マルチ分割された監視カメラの映像がモニターに映し出された。
 その内の一つを全画面表示に切り替える。
 そこは真っ白な病室で、ベッドに横たわる少年と、それを看護する少女の姿が写し出されていた。
 横たわる少年は深い眠りに落ちている様子で、身動ぎ一つしない。
 全身を革のベルトでベッドに縛り付けられている。
 その様が、そこが尋常な病室では無い事を物語っていた。
 その脇のパイプ椅子に、少女が座っていた。
 深緑の長い髪をたおやかにしな垂らせ、今日が何の日であるか? それが一目で分かる、赤と白の装束に身を包んでいる。
 少女の存在がこの部屋の異質さを和らげてくれている。入江はそう思った。
 少女は飽く事無く少年を静かに見守っていたが、時折その髪や頬に触れた。
 その所作は緩やかで優しく、恥らう様でもあった。
 入江は自分の頬が緩んでいる事に気がついた。いつまでも見守っていたい衝動に駆られていたのだ。
 自らの頬を軽く叩く。
「――違いますね。私の役割は、見守る事じゃない。『これ』を終わらせる事。そうでしょう?」
 独り言ち、入江はモニターの電源を落としてデスクに戻った。

 私は運が良い。悔恨を払うチャンスを与えられたのだから。
 過去の自分は無力で――両親を救ってあげる事が出来なかった。
 着せられた汚名を晴らしてあげる事さえも、出来なかった。
 今は違う。
 私はこの二人を救う事ができる。
 その力が、私にはきっと有るのだから。
 この二人を、きっと幸せにしてみせる。
 そうする事が私にとっても、きっと……きっと大切な事で、幸せへの道である筈なのだから。

 白衣のポケットから、純白の包装紙に包まれた長方形の箱を取り出す。少女から受け取った賄賂……いや、クリスマスプレゼントであった。
 包装紙を丁寧に剥ぎ、箱を開ける。中から出てきたのは万年筆であった。
「これは……奮発して下さって……」
 万年筆という物は思いのほか高額だ。ちょっと良い物を選べば、すぐに万単位の買い物になる。
 言うなれば嗜好品と言える代物である。
 そして今入江が手にしている物は、一目でそれと解る程の高級品だ。
 黒の光沢が美しい漆塗りの本体に、金メッキの縁取りがキシリと輝いている。 
 キャップを外してみると、予想に違わず金製のペン先が誇らしげに現れ、安物の卓上スタンドの光を、不服気に反射して見せた。
「私への期待の表れ……という事でしょうか。これは頑張らないといけませんね。詩音さんの期待を裏切ると、後が怖いですから」
 キャップを戻し胸ポケットに万年筆を挿した入江は、二つ折りにされた小さな便箋が箱の中に入っているのを見つけた。
「おや。メッセージ付ですか」
 微かにポプラの香る便箋を広げると、ほんの短いメッセージが綴られていた。

 ―― 監督へ ――
 気に入って貰えましたよね?
 私からのプレゼントなんですから、当然です。
 なーんて、冗談ですよ♪
 大切に使って下さいね。 

 悟史君の事……お願いします。
 待っています。
 ―― 出来の良い妹 詩音 ――

『待っています』……その言葉が、入江の心に楔を穿った。
 私の力を必要としている人が居る。頼りにしてくれる人が居る。
 それを重荷と感じるか、力と感じるか。それは人それぞれだ。
 入江の胸に、熱い物が込み上げる。
 それは情熱とか決意とか、そう呼ばれる類の力だった。
「任せて下さい……っ」
 静かなる青年の瞳に、静かなる決意の色が浮かぶ。
 便箋の裏には、もう一行のメッセージが綴られていた。
 ―― 悟史君の事で分らない事があったら、何でも聞いて下さい ――
「ははは。詩音さんには敵いませんね」
 これでは主治医形無しだ。笑いながら入江は万年筆と手紙を、何度も何度も眺めては、読み返していた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――

 ―― 同日 午後十一時五十五分 ――

 去年よりも確実に鋭さを増した、肌を刺すような冬の大気。
 診療時間を遠に過ぎ、灯りの消えた入江診療所の駐車場を、蒼白い月明かりだけが照らしている。
 そこに、一台の車が停まっていた。
 医療の場には全く不似合いないかめしい黒ずくめの高級車が一台、エンジンを掛けたままライトを消して停められていた。
 助手席側のドア脇に、人影はあった。
 グレーのトレンチコートの背を伸ばし、夜の闇に溶け込むように、男は静かに立っていた。
 そこに居る。ただそれだけで信頼感を与える事が出来る。そういう類の男だ。
 寒い夜だった。
 憩う術も無く、紫煙をくゆらせるでも無く、ただ男の側を刻が過ぎて行く。
 まんじりともせず立ち尽くす男の立てた襟の間から、白い息が漏れて霞む。
 唇の隙間からひゅうと生まれ出で、寒空にすうと消えて行くその様に目を遊ばせる程度の気の緩みは、自らに許しているらしかった。
 どの位の刻が経った頃だろうか。
 一粒の白い蛍が不意に現れ、ゆらゆらと舞い降りて男の鼻を濡らした。
 鼻を拭った指先は僅かに濡れただけで、何も残りはしなかった。

「雪……?」

 惚れ惚れとしびれる様な、低い声であった。
 冬特有の高く澄み切った夜空を見上げる。雲ひとつ見当たらなかった。
 数え切れない星の瞬きが踊っている。
 ――寒さが厳しければ厳しいほど美しさを増す、漆黒の闇に浮かぶ満天の宝石。
 哀しいかな、都市化が進んできた輿宮の空ではもはやこの景色は望めなかった。
 ここから車にして、僅か三十分程度。一昔前まで同じ空を携えていた田舎町にも、人々が利便さを得る為に吐き出された、汚れた膜が張りつつある。
 雛見沢の空。
 厳しさも。
 美しさも。
 尊さも。
 全てが有りのままに、そこに在った。
 自然と共存するこの村の尊さに敬意を表しつつ、男は月を眺めた。
「日付も変った頃か」
 主人を待つ間に、気忙に時刻を確認する様な無粋はしない。
 為すべきは、帰りを待つ事のみ。
 ただ月の傾きが、刻の流れを教えたに過ぎなかった。
 それから更に数分の刻が過ぎた頃。
「葛西」
 若い声に名を呼ばれた男が視線を返すと、女主人がヒラヒラと右手を振っていた。
 太陽の下であれば翡翠色に輝く髪を月明かりに晒し、艶やかな千歳緑を揺らせて歩いている。
 左肩に掛けた白い大きな袋は、ここへ来た時にはパンパンに詰まっていた。が、今やもう殆ど中身を失い、すっかりしぼんでしまっている。
「お待たせしました。ちゃんとサンタさんの帰りを待っていましたか? トナカイさん。うふふ」
 悪戯に笑う少女の問いに、僅かな微笑を湛えて葛西は答えた。
「もうお見舞いは終りましたか。詩音さん」
「ええ。悟史君は今日も良い子でした。――さ、帰りましょ。この格好、外ではちょっと寒いです」
 そう言って詩音は、惜し気もなく露にした太腿を右手で撫ぜた。
 今夜の詩音が普段よりも少し、大人びて見えるのは月光の仕業であったろうか。
 それとも、うっすらと光る艶かしいピンクのルージュを乗せた唇のせいであっただろうか。
 頭に被った赤色の三角帽には白いふさふさとした縁取りが施してあり、その天辺には同じ素材で作られた白く丸いボンボンが踊っている。
 同じ彩のケープを肩に掛け、その下に装ったこれまた同じ彩のワンピースは、少し丈が短い……と葛西は思う。
 ワンピースの下にはスカートを履いていなかった。
 ストッキングを着けず、コーデュロイ製の赤いブーツだけの生足は十分に魅力的であるのだろうが、葛西は寒々しさを感じるだけであった。
「ですから丈をもう少し長くと私が――」
「はいはいそれはもう聞き飽きました。――車の中で待って居てくれれば良かったのに。外、寒かったでしょう?」
「そう言う訳にもいきませんので。さ、どうぞ」
 助手席のドアを開けて乗車を促す葛西の肩を、詩音が後ろから指先でトントンと叩いた。
 振り返る葛西に、詩音はハンドルを握るジェスチャーをして、くるくると両手を回して見せた。
「今日は私が運転してあげます」
 ニッコリと笑う詩音。
「詩音さん……それはちょっと」
「なぁに葛西。私のドライビングテクニック、疑っているんですか?」
「いえ、そういう問題では……」
「いいからいいから。さっ、乗って乗って」
 葛西の制止も聞かず詩音はさっさと反対側に周り込み、運転席に座ってしまった。
 唯一スモークを貼っていないフロントガラス越しに葛西が車内を覗き込むと、詩音は唇を尖らせながら助手席を指差していた。
 早く座れと言う事らしい。問答無用と言う訳だ。
「……やれやれ」
 今は『年末特別強化月間』とやらで、交通取締りの厳しい時期であると言うのに。
 とは言えこうなると梃子でも意見を曲げないのが詩音である。
 その事を、葛西は誰よりも重々承知していた。
 仕方がない。興宮の手前で替わっていただければ、まあ捕まる事は無いだろう。
 自分にそう言い聞かせて葛西は自分で開けたドアを潜り、助手席に着いた。
 いや、着こうとした。
 背を屈めて乗り込んだ時、頭の上で何かがドア枠に引っかかった。
 両耳の上辺りに、引っ張られる様な軽い痛みを覚える。
 ――あぁ、と葛西が何かを思い出した様につぶやいた。
 詩音の言い付けで頭に付けていた『こいつ』を、すっかり忘れていたのである。
「何やってるんです葛西? ……って、……あはははっ。そ、それ、まだ付けてたんですか!?」
「待機中付けておくように、と言ったのは詩音さんじゃありませんか」
 葛西は頭に付けていたカチューシャを取り外した。
 茶色のカチューシャにはトナカイの角が付いており、それがドア枠に引っかかったのだ。
 堪えもせず笑い転げる詩音にトナカイカチューシャを手渡し、葛西は改めて助手席に乗り込んだ。
 深夜だと言うのに掛けたままにしておいたサングラスのお陰で、表情が隠せていたのは幸いだったろう。
『苦虫を噛み潰したような顔』をしている所を、主人に見られずに済んだのだから。
 ひとしきり笑い転げた後詩音は、何を思ったのか帽子を脱ぎ、代わりにトナカイカチューシャを自らの頭に嵌めた。
「あー面白かった。さて、それでは今度は私めがトナカイとなりまして、サンタの家へとソリを牽かせていただきます」
 成る程。それを見た葛西が頬を緩める。
「出発してもよろしいですか? サンタさん」
「ええ。よろしくお願い致します」
 苦虫は喉元を過ぎ、葛西の口元には微かな笑みが浮かぶ。
 こう言う憎めない小狡さというか、大人びた幼さというか……そう言う可愛らしい所は、全くもって親娘揃ってそっくりなのであった。
 ヘッドライトが点灯し、手馴れたハンドル捌きで車は左折し、駐車場から発進した。
 実際、問題なのは免許の有無に関してのみであり、詩音の運転技術に関しては何の不安も無いのである。
 診療所の敷地から道路へと出る為に一旦停止した際、詩音はサンタの帽子を葛西の腿の上にポンと投げて寄こした。
「……なんでしょう?」
「葛西は今サンタさんなんです。それ、かぶっておいて下さい」
 悪戯な微笑が、またも詩音の横顔に浮かんでいる。
 そして葛西は二匹目の苦虫を噛み潰すのであった。

トナ葛西


 カーラジオから流れる流行曲に合わせ微かに歌う詩音さんの鼻歌を耳に、私は少しまどろみかけていた。
 夜中の田舎道は特に変化も見せず、ヘッドライトに照らし出され扇状に切り取られた世界は、音も無く静かに流れて行く。
 助手席の窓から見える物といえば、ポツリポツリと遠くに灯る民家の明かりのみ。
 砂利を蹴るタイヤの音が睡魔を誘う。
 静かな世界だった。
 その柔らかさに、私は少し気が緩んでいたのだろうか。
「悟史さんの容態はどうでしたか」
 何とは無しに聞いた質問だった。だが詩音さんは鼻歌を止め、僅かに溜息を漏らした。
「んー……意地悪な質問ですね。葛西」 
 ――失言だった。
 悟史さんはウィルス性の精神病と言う、変わった病にその心と体を蝕まれていると聞いている。
 決定的な治療方法は今だ見付かっておらず、寝たきりの状態であると聞いていた。
 にも拘らず「いかがでしたか?」などとは、埒も無い事を聞いてしまったとしか言い様が無い。

 ――今日こそは。

 毎回抱くその期待を胸に愛する者の元へ行き、何も変らぬ現実を受け止める日々。その積み重ねがどれほどの痛みを心に宿すのか。
 終わりの見えない看護がいかに重圧であるのか……私は配慮を欠いていた。
「すみません」
 私が神妙に謝ると、詩音さんはクスリと笑い「冗談です。そんなに本気にしないで下さい」と私の肩を小突いた。
「悟史君はね、いつ行っても違う顔で私を出迎えてくれますから。楽しくって仕方ありません」
 そう言って詩音さんは悟史さんの様子を語り始めた。
「顔色だっていつも違いますし、表情だって全然違います。爪だって髪の毛だって伸びますし、寝癖も毎回違いますから……心配なのがお肌の荒れなんですよね。薬のせいなのかな……荒れやすいんです。だから定期的に化粧水を持っていってあげてるんですよ。あっそうそう聞いて下さい葛西! 私ったら、凄いんですよ? 私が行くとですね、悟史君の脳波のオシロスコープがね、すっごく安定するんですって! スゴイでしょ? あ、信じてないな~? 本当なんですから。ちゃあんと監督に見せてもらったんですからね。それからね、この間行った時の話なんですけれど――」
 相槌を打つ間も無く、詩音さんのマシンガントークは延々と続いた。
 私に出来る事と言えば、ただ耳を傾ける事だけだった。
 悪い気はしなかった。
 息継ぎも忘れて言葉を紡ぎ続ける詩音さんは、とても楽しそうだったのだから。
 ――彼女は幼い頃からいつだって何かを背負わされて生きて来た。
 それが報われた回数など、私が知る限り片手で数えて事足りる。
 だがけして膝を折らず、投げ出さず、抱え続けて来た。
 詩音さんの健気な強さが愛おしくて、思わず笑みが零れた――
「詩音さんには敵いません」
 口に出すつもりは無かったのだが、知らずの内に口をついて漏れていた。
 零れた言葉に、詩音さんは「当たり前です」と胸を張って答えた。
 その様子が私にも誇らしかった。
 だが詩音さんは一拍の間を置いた後、神妙な顔をして言った。
「なんて……ね。――本当はね、何度も挫けそうになりました」

 ――最初の頃は、もう本当に嬉しさだけが一杯で、毎日が信じられない位短かったです。
 悟史君が生きていた。
 それを沙都子に伝えたくて伝えたくて、秘密にしているのが大変でした。
 だけどね……一ヶ月が経ち、二ヶ月が過ぎた頃……不安が顔を出すようになりました。
 一生このままかも知れない……。
 治療が打ち切られてしまうかも知れない……。
 このまま……悟史君は死んじゃうのかも知れない……って。
 日差しは夏から秋へと柔らかくなって行くのに。
 日は短くなって行くのに、私の一日は段々と長くなって行ったんです――

 私に語るとも無い詩音さんの独白はそこで喉を詰まらせた。
「誰でも、そうなると思います」
 私の言葉に詩音さんは静かに首を横に振った。
「私はこのまま、物言わぬ悟史君に…………一生縛られて生きていくの? ……そんな、自分勝手な事も、考えました」
「……」
 狭い畦道から比較的広い道に合流するT字路に車がさしかかる。
 道の角度に対し、オーバースピードで曲がる車の遠心力が私の体に圧力を掛けた。
「……ずるい…………女ですよね。私……」
 何も言えなかった。詩音さんもそれ以上何も言わなかった。
 喉元まで登る言葉を胸の中へと飲み込み、頭に浮かぶ次の言葉をまた押し殺した。
 お互いが同じ作業を繰り返し、沈黙を食む。
 自然の生む暗闇の中を、僅かな光だけを頼りに進む車。
 私達は本当に輿宮に向かっているのだろうか?
 この暗闇だ。どこかで道を間違え、誤った方向へ進んでいるのではないだろうか?
 ……何故かそんな思いが心をよぎった。
 身を委ねていた沈黙を破ったのは詩音さんだった。
「おでこの怪我、まだ痛みます?」
「額? ――ああ、何ともありません。もう三ヶ月も前の事ですから」
「でも傷、残っちゃって……」
「詩音さんから頂いた向こう傷です。どうと言う事はありません」
 私は額の傷跡を撫でながら笑って見せた。

 三ヶ月ほど前、詩音さんには情緒不安定な時期があった。
 今思えば、看護疲れから来るストレスと疲労が溜まっていたのではないかと思う。
 そんなある日、私の配慮が足りず詩音さんの心を傷つけてしまった事がある。
 詩音さんは泣きながら暴れ出した。
 何とか取り押さえたものの、カーテンは破れ食器は床に散らばり、室内は散々たる有様を呈した。
 その騒動の中、詩音さんの投げた置時計が私の額に命中したのだ。
 額の傷は、その時に出来た物だ。
 六針程縫う羽目となったが、流血に驚いた事で詩音さんが落ち着きを取り戻して下さったのだから、まあ安い物だった。
 それ以降、今日に至るまで詩音さんが荒れる事は無かった。

「あの頃がピークでした。本当にごめんなさい」
 お気になさらないで下さいと言う私に詩音さんは首を横に振った。
「あの時は葛西のお陰で、随分楽になったんです……感謝してます」
「お役に立てて光栄です。――ですが、出来れば今後はもう少し軽い物でお願いしたいものです」
「え? ……あ、やだもう。葛西の意地悪」
「申し訳有りません。はははは」
「今度はそんな軽口叩けない様な大きい物にします。うふふふ」
 私の笑い声につられ、詩音さんの顔にもやっと笑みが戻った。
 やはり女性は笑顔に限る。
 詩音さんは悪戯な微笑を湛え「今度はどうやって葛西を困らせようかな」等と言い始めた。
「園崎の女性の扱いには慣れておりますから。少々の事では動じません」
「あ、葛西また言った。うふふふ」
「また……とは?」
「あれ、覚えて無いです?」
「何の事でしょう」
「その傷に、私が包帯を巻いていた時ですよ。覚えてませんか?」
「さて……」
 詩音さんが包帯を巻いてくれていたあの時――?

「御免なさい葛西。あたし……あたしっ」
「大丈夫です。大した怪我じゃありませんから」
「嘘っ。だって……だってこんなに血がっ」
 額を押さえていたタオルは確かに真っ赤に染まり、血が滴り落ちていた。
「詩音さん、洋服に血が付いてしまいます。自分でやりますから」
 オロオロと包帯を巻く詩音さんの顔には、先程までの狂気はすっかりと失われ、後悔と自責の色が浮かんでいた。
 白地に縦縞のピンストライプの入ったお気に入りのタートルネックに血が付くのも構わず、一生懸命に包帯を巻いて下さる詩音さんの瞳には涙さえ滲んでいた。
「御免なさい」を繰り返す詩音さんが余りにもいたたまれず、私はその手を抱きそっと制止した。
 撒きかけの包帯がはらりと落ちる。
 額から流れ落ちる血が私のスーツに黒い染みを作り、右の目尻を掠めた血が目に入る。
「か、葛西……?」
 私は唇の両端を少し上げ、静かに詩音さんを真正面から見つめた。
 詩音さんの濡れた瞳は時に視線を外しつつも、戸惑うように私を見つめた。
 抱いた詩音さんの両手を静かに下ろし、私は出来るだけ優しい声音になるようにと言葉を紡いだ。
「悪いのは配慮の足りなかった私です。大丈夫です。詩音さんは大丈夫ですから」
「かさ……でも、怪我……」
「大した事はありません。茜さんと一緒に居た頃は、この程度では済みませんでしたよ」
「……母さん?」
「はい。園崎の女性の気性は存じております。この程度の事では、動じません」
「…………ん……ゴメン……」
「謝っていただく為の私では在りませんから。どうか、お気になさらず」
「…………葛西……」

 ――……ああなる程。そんな事を私は言っていたか。
 カーステレオから流れる軽快なポップスが耳に入る。
 車内の空気は随分と軽くなっていた。
「葛西は私の事、好きですか?」
「詩音さんをですか? ええ。もちろん好意を持っています」
 唐突な質問に何事かと多少動揺したが、淀みなく返事を返した。
 しかしその答えが終わるか終わらないかの間に、質問は続いた。
「葛西は、お母さんの事、好きでしょ?」
「…………好意は、持っておりますが……」
 今度は一瞬言葉に詰まってしまった。その様子を見て、詩音さんは何やら勝ち誇ったような表情でまた笑った。
「あははははっ。さっきの意地悪のお返しですっ……何てね。冗談ですよ、御免なさい。うふふふ」
 私は何も答えず、ふうと溜息を漏らした。
 やはり、良く似た親娘だ。今日二度目の確証を得た。
「あの時葛西がお母さんの名前を出した時にね、思ったんです。――ああ、そういえば、身近に私と同じ想いをしている人が居たなぁって」
「はぁ」
「想い続けても、報われない。そんな想いを持ち続けている人が身近にいたなぁって、そう思ったんです」
 ……何と相槌を打ったものか……。悩んでいる間にも言葉は紡がれた。
「報われないと分っていても、ずっと側に居て、見守ってあげているんだなって。……私独りが辛いんじゃないんだなって思ったら、私を取り巻く環境とか、色んな事が見える様になって来たんです」
「……良い事だと思います」
「ええ。――頑張ってくれている監督や診療所の人達。不器用だけど、やたらと気を使ってくれるお姉。私に甘えてくれる沙都子。いつも味方で居てくれる葛西……。感謝しなくちゃいけない人達が、こんなに沢山居たんだって、気付きました」
「そうですか」
「悟史君の表情が変わって見え出したのも、その頃からです。もう、今じゃあ悟史君の微妙な変化探しがね、楽しくて楽しくて! ……葛西には、本当に感謝してます。……ありがとう、です」
「…………」
 何と答えて良い物やら。
 そっけない返事のレパートリーも、あっさりと底を突いてしまった。
 ……まさか『お役に立てて光栄です』などと答える訳にもいくまい。
 そんな事を言えば、私が茜さんに恋心を抱いています、と肯定するようなものだ。
 かと言って『私はその様な感情は持っておりません』などと言えば、詩音さんの頑張る心を傷付けてしまいかねない。
 私はただ、フロントガラスを流れていく景色に目をやるしか所在が無かった。
 さてどうしたものかと私は腕を組み、頭を垂れて思案に没頭した。

「むぅ……」

「へ? ……葛西、今なんて…………ぷっ……あはははっ。あっはははははははは!」
「どっ、どうしました詩音さん?」
「むぅって? あっはっ葛西……くくくっ、かさ……、むぅっ…………似合わなっ……くっ。くくくっ……あははははっ!」 
 何がどうしたのか分らない。
 返答に窮し短くうなった途端、詩音さんは腹を抱えて笑い出したではないか。
 前を見て運転してくださいと注意するも、大笑いは絶えなかった。
 理由も分らず笑われるのは、流石に気分の良いものでは無い。
「詩音さん。勘弁して下さい」
「あっはははっ。あー……御免なさい葛西。今日はちょっといじめ過ぎましたね……あー、おかしい」
 少しばかりだけ声に怒気が篭ってしまったが、幸い詩音さんは気にした様子も無かった。
「御免なさい御免なさい。――あ、そうだ葛西。後ろの袋の中身、ちょっと取って貰えませんか? 一つ小さな箱が入っていると思います」
 言われるままに後部座席に放り出された袋に手を伸ばす。
 これは今日悟史さんと診療所の皆さんにと言って詩音さんが持って来た、プレゼントを入れていたサンタの袋だ。
 もうすっかり空だと思っていた袋の中には、プレゼント用の洒落たリボンを巻いた紫色の小さなケースが一つ残っていた。
「意地悪したお詫びです。診療所のスタッフさんにプレゼントするのに用意していたんですけど……一つ余っちゃいました。それ、葛西にあげます」
「よろしいんですか?」
「ええ、余らせても仕方ありませんから」
「ありがとうございます。――開けてみても?」
「え、ここで? ……え、ええまあ、いいです」
 思わぬ贈り物を頂いた事も嬉しかったのだが、詩音さんが診療所のスタッフに一体何を贈ったのかと言う事にも少なからず興味があった。
 私はリボンを丁寧に解き、箱を空けた。
 中に入っていたのは、シンプルなデザインに小さな宝石のついたシルバーのネクタイピンだった。
「これはこれは」
 ネクタイピンを取り出す私を、詩音さんが横目でチラチラと見ている。
 どうやら私の反応を気にしている様だ。
 口元を緩め「これは良い物ですね。私のスーツに合いそうです」と独り言のように漏らすと、詩音さんの表情が軽い緊張から解かれ柔らかく変化した。
「あら、良かったじゃないですか葛西。残り物には福来る、ですね」
「全くです……おや?」
「あっ」
 何気なく裏返したネクタイピンの裏にはイニシャルが彫りこまれていた。

『T・K』

 ――辰由 葛西。
 私のイニシャルであろうか。
 つまり……これは最初から私の為に『偶然』残される予定の福物だった……という事か。
「……」
 何も言わず、妙に真面目に前を向いて運転している詩音さんの耳が、少しだけ赤い。
 私はつけていたネクタイピンを外し、詩音さんからの頂き物を身に付けようとクリップを開いた。
 だが……暫く考えた後、クリップを閉じネクタイピンをそっと紫の箱へとしまった。
 その様子を、助手席側に曲げたバックミラーでチラチラと見ていた詩音さんが怪訝そうな表情で私に問う。
「着けないんです? …………気に入らなかった?」
「いいえとんでもない。とても気に入っています。これは私の宝物になりそうです」
「なら……どうして」
 一呼吸置き、私は言った。
「これは、悟史さんが退院した時の迎え用にとっておきましょう」
「え……」
「素敵なネクタイピンです。早く身に付けたいものです。ですから私も、微力ながら願掛けをさせて頂こうと思いまして」
 掌に乗せた宝物に目を落としていると、タイミングを計ったかのようにカーステレオから『清しこの夜』が流れ始めた。
 悪くない夜だ。
 素直に、そう思った。
「葛西…………キザですね」
「クリスマスとは、そういう日だと聞いております」
 詩音さんは左手でこめかみの辺りを掻きながら、私から顔を隠すようにして「ありがとう」と小さくつぶやいた。
 ――私の女運は、あまり良い方では無い。
 母親に続き、どうやらその娘さんを相手にしてまで失恋を経験しなくてはならないのだから。
 しかし私は願う。
 一日でも早く、この恋が敗れる事を。
 一刻でも早く、恋敵が目を覚ます事を。
 恋敗れた私がこのネクタイピンを身に付ける時までの夜が、一夜でも少なくて済む事を……私は、切に願う。

 長く緩い坂を越えると、輿宮を走る国道の灯りが見え始めた。
「詩音さん、そろそろ輿宮です。運転を替わりましょう」
「えぇ? 良いじゃないですか。とっ捕まったって、そんなの揉み消して――」
「詩音さん」
「……ちぇーっ。んもぅ葛西、お堅いっ」
 路肩に止めて車を降り、ヘッドライトの照らす前で私と詩音さんはお互いの右手をパンと打ち鳴らし、運転を交代した。
 運転席に乗り込む際、ふと気になった事を質問してみた。
「ところで、悟史さんには何を差し上げたのですか?」
 詩音さんは『それを早く聞いて欲しかったんですっ』と言いた気な表情を見せた割に、答えを教えてはくれなかった。
「ウフフフフ。秘密です」
 いつもの、悪戯な笑いを浮かべるだけだった。
 その後の詩音さんは大変挙動不審で、思い出し笑いと妄想に浸って頬を赤らめる、の二つを延々と繰り返し続けた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――

 翌朝。
 入江は毎朝の日課である回診を行う為、地下の病室を訪れた。
「おはようございます悟史君。今日も外は寒いですよ」
 日課となった「独り言」を言葉に乗せて、入江は壁のスイッチを押して病室の明かりを燈した。
 先週交換したばかりの蛍光灯が数度明滅し、いつもと変わらない病室を照らし出す。
 無機質な白い天井に白い壁。田舎の診療所には不似合いな最新医療器具の数々がオシログラフを表示し、等間隔で鳴る電子音が静かに鼓動している。そして……昏々と眠る少年。
 変わらない日常の始まり――。
 詩音には毎回違う表情を見せる悟史だったが、医学と言う眼鏡を掛けた入江の瞳は、まだその変化を捉える事は出来ないでいた。
 落ち込みかける心にグッと発破を掛け、朝に相応しい笑顔で入江は悟史に近づいた。
「――さてっ。今日も頑張りましょう! 悟史く…………?!」
 その笑顔が凍りつく。
 現れていたのだ。悟史の顔に、入江にも分かる変化がありありと。
「たた、大変だっ」
 転げんばかりの勢いで備え付けの電話に飛び付き、スタッフルームを呼び出した。
 三コール目の呼び出し音が鳴り終える前に反応はあった。
「はい、一階スタッフルームです」
「あっ。戸根さんですかっ」
「はい入江所長。おはようございます」
「挨拶はいいですからっ。すみませんが、今すぐカメラを持って地下まで来て下さい!」
「え、えぇ? どうされたんです?」
「兎に角お願いしますっ」
「は、はいっ」
 戸惑いながらも慌ててカメラを探しつつ、何があったのかと戸根は思考を巡らせ始めた。  
 今の内線……『彼』の部屋からだったわ。何かまたトラブルが?
 それなら警備班も呼んだほうが……いや、その指示は出ていない。勝手に行動する訳にはいかないわね。
 入江所長は慌ててはいたけれど、その他には物音も叫び声も聞えなかったし……緊急事態では無い筈……よね。
 不用意に『彼』の束縛を解いた為に、大怪我を負わされた所員の姿が頭をよぎる。
 不吉な予想を頭から振り払い、スタッフルームの備品棚をごそごそと探していると、ふいに目的のインスタントカメラを発見する事が出来た。
「――あった!」

「んん……これはしかし……」
 神妙な顔で入江が悟史を見つめていた。視線の先の悟史が目を覚ましている様子は、無い。
 複数のケーブルで繋がれた電子機器類も、何らの異常を伝えてはいなかった。
 しばらくの後、戸根が病室に到着。
 電子ロックを解除して扉を開け、警戒する様に足音を忍ばせて病室に入った戸根は、寄り添うように入江の背にそっと身を隠した。
「すみません遅くなりました。カメラです」 
「あぁどうもすみません。……? どうされたんです戸根さん。そんなに怯えて」
「え? いぇその……彼、大丈夫なんです? また暴れ出した、とか……」
「いえ大丈夫ですよ。よく眠っています」
「ぁ……何だ。入江所長があんまり慌てていらっしゃるから、私ったらもうてっきり」
「あぁすみません。でも一大事には変わりないんですよ。ほら」
「え? ――――あら……あらあらあらっ」
 入江の肩越しに悟史の様子を覗き込んだ戸根が笑う。
 静かに寝息を立てる悟史の頬には、くっきりと、ピンクのルージュサインが残されていたのだ。
 まるで漫画に出て来そうな、鮮やかな唇のマーク。
 なるほどこれは確かに一大事ですね、と戸根はもう一度笑った。
 釣られて自らも笑いながら、入江は言った。
「笑っていては困りますよ戸根さん。これは『看護目的以外で、患者に触れてはならない』と言うルールの、重大違反行為じゃないですか。――くくくっ。……コホン。あーですからですね、今後の事も考えてこれはきっちりと『証拠写真』を残しておかなければならないな、と思いまして」
「ふふふっ。ええ、仰る通りです。これは重大違反ですね。きちんと事実を残しておかないといけませんわ」
 悟史に近づきファインダー越しにその安らかな横顔を捉えると、戸根は優しい笑顔を浮かべながらシャッターを切った。
 四角いカメラの上辺のスロットからインスタントフィルムが排出される。
 今撮ったばかりのそれは、まだ真新しい白のままだ。
「でも許してあげませんか? 凄いじゃないですか、彼女――詩音さん」 
 フィルムを右手で振りながら――こうすると早く画像が出ると彼女は信じている――戸根が言った。
「ええ。流石に大胆です」
「いいえ、そうじゃ無くて」 
「?」
 入江は言葉の意図が分からず、キョトンとして横に立つ戸根の横顔を見つめた。思いの他その距離が近く、入江は僅かに頬を紅潮させ、すぐに眠り続ける悟史に視線を戻した。
 そんな様子に気付かず、戸根は悟史の寝顔を見つめたまま優しい顔をして言葉を紡いだ。
「ほら彼。笑っているじゃありませんか」
「え? あ…………本当だ」
 入江は少なからず驚いた。悟史はその口元に、うっすらとではあるが笑みを浮かべていたのである。
 まるで雛見沢症候群を発症させる以前の様な、優しく……慎ましやかな微笑み。
 こんな現象は悟史をここに『入院』させてからと言うもの、始めての事だった。
「いやだ。お気付きになられていませんでしたの?」
 呆れたように戸根は入江に振り向いて言った。入江はバツが悪そうに軽くおどけて「申し訳ない」と苦笑いを浮かべた。
 しかしおどけて見せたその内心、もう少し深く傷付いていた。

 自分は患者――悟史君の主治医です。主治医は患者の事を一番良く知っている人間で在らなければならない。少なくとも、その病気に関してだけは、そう在らなければならないでしょう。
 だのに私が数年かけても為し得なかった一つの成果を、詩音さんは出してしまった……いや、出して下さった。
 ――雛見沢症候群は、寄生虫が引き起こす『脳』の病気だ。
 『脳』は『心』に大きな影響をもたらす。いや『心』そのものと言っても良いでしょう。
 私は脳外科に関しては、それなりの知識と経験を積んできたつもりです。
 ですが……どうやらそれだけでは足りなかったのかも知れないですね。
 最新の医療器具に有能なスタッフ。
 今までに培ってきた知識。
 鷹野さんの残してくれた膨大なデータに資料。
 ……数字やデータに囚われ過ぎて、私は大切な事を忘れてしまっていたのだろうか……。
 そしてそれこそが、医療の本分だったのではないのか?

「――詩音さんが主治医だったなら、良かったのかも知れませんね……」
「はい? 何か仰いましたか」 
「いえ、何でもありませんよ」
 呟いた弱音は幸いな事に、医療器具の電子音によって掻き消されていた。
 入江は一つ咳き込んでネガティブな表情を内に隠した。そして中指で眼鏡をくぃと持ち上げこう言った。
「確かに悟史君に笑顔を取り戻して下さった功績は素晴らしいの一言に尽きます。認めましょう。で、す、が、それとルールとは別問題です」
「え? えぇまあ……確かに」
「もちろんです。詩音さんが看病のルールを破ったのは事実です。罪には、罰を与えねばなりません」
「……入江所長、でもそれは少しばかり――」
 狭量では無いでしょうか? という言葉を危うくの所で呑みこんだ。
 こんな可愛らしい悪戯の所為で面会許可取り消しでは、余りにも可哀相であるし彼女も絶対に納得しないだろう。
 厳しい表情を見せる戸根に、わざとらしい威圧的な表情を顔に貼り付けて、入江は続けた。
「彼女達の流儀で行きましょう」
「彼女達の流儀……?」
「ええ。彼女達は部活と称して、様々な勝負をして遊びます。その敗者や、ルールを逸脱した者には処罰が与えられるそうです」
 戸根の表情に柔らかさが戻った。入江が本気では無いという事に気付いたのだ。
 それと同時に『部活』と言う単語に興味を覚えたらしく、見る見る内にその瞳を好奇の色が満たしていく。
 元来、彼女も好奇心旺盛な科学者の一人なのであった。
「――それでその部活ルールですと、詩音さんはどうなってしまうんですの?」
「『罰ゲーム』です」
「『罰ゲーム』……んん、何だかドキドキする響きですねぇ! ――あ。写真、できたみたいです」
 戸根の持つインスタント写真を二人が覗き込む。
 そこにくっきりと浮かび上がった、完璧な仕上がりの『証拠写真』。
 入江の眼鏡がキラリと白く輝きを放つのを、戸根は見たのであった。

 ―― 数日後 ――
 園崎詩音がお下げ髪にメイド服姿という出で立ちで、顔を赤らめながら診療所の受付を行っている所を、その姉である園崎魅音が目撃。
 必死に口止めをするもその効果虚しく、続々と友人達が押し掛けて来る事に。
 その後も口コミは広がり、輿宮の有名レストラン『エンジェルモート』の常連らしき男性客達も現れ「指を切ったでござる」「頭が痒いのであります」等と言っては受付に殺到した。
 雛見沢は田舎である。人懐こいその土地柄もあり、人が集まっている場所には自然と更に人が集まって来る。
 村の老人達も集まり、いつの間にかロビーはお祭り騒ぎ状態になっていた。
 詩音を除き誰一人止める者も居ないお祭りは加速して行き、診療所はさながら、気の早すぎるお花見会場と化して行くのであった。
 結局その日は大きな怪我や病気も無く、陽が落ちるまで診療所から笑い声が絶える事は無かった。
 面白がった戸根が集計した所、その間に詩音が発言した「おぼえてらっしゃいお姉っ」の数は、優に五十を超えたそうである。

 ―― 以下、昭和五十九年十二月二十五日 入江京介 診療日記より抜粋 ――
 後の脳波記録を調べて判明した事ですが、二十四日の深夜午後十一時四十分~明朝零時に掛けて、悟史君の脳波はL5を示すパターンとは異なる形で、激しく乱れていた。
 一番近しいと思われる感情パターンは『興奮と幸福感』
 やはり昨日の深夜、自らに何が行われたのか、彼は知っていた?
 しかもそれを、純粋な悟史君の心のままで受け止めていたと言う事だろうか……?
 ならば、詩音さんに頂いた万年筆のお返し……それもとびっきり最高のお返しをして差し上げられる日も、近いのかも知れません。
 その日までの夜が一夜でも少なくなるよう、私は全力を尽そうと思います。 

 ―― おわり ――



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この記事に対するコメント

コメントおじゃまします。
以前に拝読した時も、みんなの一途な心がすごくステキだなーって
思ったのですが今回もやっぱり、ステキでした。
葛西さんや、詩音の強くて深い想いはいつも憧れです。
そして追加部分の入江先生のエピソード!
入江先生の人間っぽくて等身大の一面が見れたようで、入江先生に
惚れ直しましたVマニアな罰ゲームセンスもさすがですね!!

かなり遅刻気味ですが、、、ひぐ大こっそり応援してます!
【2008/09/19 22:58】 URL | krt #mQop/nM. [ 編集]


>krtさん
お返事遅れてごめんなさい!
感想ありがとうです。入江先生の追加エピソード、楽しいで貰えて何よりですw
>かなり遅刻気味ですが、、、ひぐ大こっそり応援してます!
ありがとう! 頑張りますっ……って今からは頑張りようも無いですねwww ありがとうです!
【2008/09/24 03:48】 URL | cvwith #- [ 編集]


今更コメント失礼!

入江に葛西。大人組の魅力が溢れてますな!
入江は本当に誠実の塊のような男性ですよね。非常に好感の持てる人物です。
葛西と詩音の暖かい絆もすごくよかったです。
葛西の揺るがない忠誠心が素晴らしくてなお切ない!
それにしても悟史は本当は寝たフリしてるんじゃないかとか思ってしまったw
羨ましいやつめ!w

追記
トナカイ葛西さんの挿絵萌えましたw
葛西のスイーツ好きなとことか、見た目に似合わないお茶目なところはイイw
【2008/09/24 22:22】 URL | だいぶつ #gIYQI5Sw [ 編集]


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岡山に生息。
カレーは混ぜてから食べる派です。
「ひぐらしのなく頃に」の二次創作を中心に、ショートストーリー(SS)を書いています。
「うみねこ」もちらほらとやってます。
いずれオリジナルも書いてみたいと野望を持っております。

メアド : kdksf1@mail.goo.ne.jp
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